遺品整理をレポート
軍国都市京都で生まれ、帝国軍人になることを夢見ていた私のように、植民地とはいえ小林さんもまた大日本帝国の臣民として生まれ、帝国軍人への道を歩まれたのである。
Eさんは、「自分の裁判のために、大勢の方にご迷惑をかけるようになってしまい、申しわけない」と、くり返しおっしゃっていた。
『申し訳ない』と思うべきは、私たちのほうである。
Eさんは朝鮮民族の一員でありながら、EとKとのあいだで、苦難の道を歩まれた。
Eさんの生活に刻み込まれた日本の軍国主義の歴史とその戦後責任のあり方を、その貴重な体験から教えていただくのは、ほかならぬ私たちだからである。
アジアで出会う日本の軍歌明治維新以来、日本で留学といえば、欧米諸国で学ぶことを意味していた。
ほとんどの大学教員は、アメリカやヨーロッパで学んだ経験をもっていて、学生にも欧米留学を勧める。
アジア―アフリカ諸国へ留学する知識人は、いまでもほとんどいない。
一万円札の福沢諭吉、五千円札の新渡米稲造、千円札の夏目漱石は、アメリカやイギリスで学んだ偉人である。
私がお札を使うたびに、栄達した三人の肖像は欧米で学ぶことの大切さを教えてくれる。
他方、日本の学校では、欧米の歌曲を教えても、ミャンマーやマレーシアの歌はほとんど教えない。
だからといって、日本の庶民がアジア体験をもたないわけではない。
この前の戦争で鬼畜英米と戦ったつもりの日本人も、ほとんどすべての戦場が中国や東南アジア地域であった事実まで忘れることはできない。
厚生省援護局によれば、敗戦当時海外にいた軍人・軍属をふくむ日本人は、六六〇万人をこえていた。
敗戦直前に帰国した人を加えると、じつに多くの日本人がアジアの暮らしを体験した。
しかも、その大半は欧米には行ったこともない庶民である。
戦後復興に彼らのアジア体験がどのように活かされたが研究する必要がある。
一九六九年一月、私はマレーシアのクアラルンプールから正午発の急行列車で、シンガポールに向かった。
たまたま隣に座ったマレー人の女性歌手と話しているうちに、「途中のジョホールバル駅で下車して、私の家に来ませんか」と誘われた。
四年近い南アジア滞在中に何度も列車旅行をしたが、初対面の若い女性から、そんなふうに誘われたことは一度もなかった。
急ぐ旅ではないから、同行することにした。
ヤシ林のなかにあるシンガポール語で村の意の家に着いたのは、夜の八時過ぎであった。
遅い時間にもかかわらず、隣近所の人たちが大勢やってきて突然の訪問客を大歓迎してくれた。
そのカンポンでは、大戦後初めて来た日本人だというのである。
食事のあと、みんなで歌をうたってくれた。
「見よ、東海の空明けて、旭日高く輝けば……」とか「僕は軍人大好きだ、今に大きくなったなら、勲章つけて剣下げて……」というような戦時中の日本の歌ばかりである。
よくも忘れずに覚えているものだと感心するくらい、多くの歌をうたってくれた。
翌朝、彼女の両親が大切に保管していた軍票を見せてくれた。
ヤシ林のカソポンを図柄に、大日本帝国政府と印刷された1〇〇ドル紙幣である。
いつか役に立つこともあろうかと捨てずにいる、という。
「二度と使える日は来ませんよ」というべきだったかどうか。
私は黙ってシンガポールへ向かった。
一九七一年春、インパール作戦をおこなった帝国陸軍の重要な軍事拠点であった、ミャンマーのマンダレーを訪ねたことがある。
戦時中の日本軍政の体験談を聞いているうちに、パゴダ(仏舎利塔)を描いた大日本帝国政府の1〇〇ルピー紙幣の札束を取り出し、ミャンマーのお金に取り換えてくれないかという老人に会った。
そんなにたくさんお金をもっていないからと弁解して、一枚だけ換えた。
その帰途、イラワジ川中流の古都チャウセから河口のヤンゴン(ラングーン)まで一〇時間近い列車の旅をした。
乗客の少ない車内では、日本の歌謡曲が流されていた。
公衆の面前で丸裸になって水浴する帝国軍人に接し、応対に困惑した話を聞いた直後だったから、ミャンマー語の『瀬戸の花嫁』や「高校三年生」を耳にしたときは、率直にいって驚いた。
ミャンマーの流行歌を口ずさむことのない日本人に比べて、人びとの暮らしに映る日本の影は大きい。
アジア各地で軍票を見るのも、軍歌を聞くのも楽しくはない。
しかし、忘れてはいけないこともある。
近年、東南アジアの歌やインド音楽に関心をもつ若い世代の人びとが増えたのは心強いかぎりである。
「兵補」という日本語を初めて知ったのは、一九六一年にアジア経済研究所に就職してからである。
二年先輩のUさんが。
「兵補と労務者という言葉が現代日本語から消えるほうがインドネシア語から消えるよりも早いだろう」と教えてくれた。
東南アジアにおける日本軍の占領行政は、一九四二年二月から三年半も続いた。
そのとき日本軍政のもとで徴用された、多くのインドネシア人がいる。
鉄道工事、飛行場建設などの苛酷な労働を強いられた人びとが、インドネシア語の「ロームシャ」である。
日本軍内部に配属されたインドネシア兵が「ヘイホ」である。
兵補は、日本兵と同様に、あるいはそれ以上に前線に立って戦わされ、敗戦と同時に日本軍によって、派兵地に置き去りにされた。
オランダ軍や赤十字の援助で帰国・帰郷できた人もいる。
自力で帰った人も、帰れないまま任地で余生を送っている人もいる。
その数は、少なくとも二万五〇〇〇人といわれている。
それから半世紀が経過し、若かった兵士の高齢化が進み、たいてい七〇歳をこえている。
現在存命中の元兵補は約一万人と推定されている。
日本国政府はこうした人たちに対して補償も謝罪もしなかった。
インドネシア政府との賠償協定で十分だ、と判断したのである。
戦勝国のアメリカ政府が、強制収容した日系人に対する償いをおこなったのとは、著しく対照的である。
同じ敗戦国であるドイツがユダヤ人や周辺諸国の戦争犠牲者に対しておこなった戦後補償とも対照的である。
もっと対照的なのは、帝国軍人とその家族に対する日本政府の手厚い援護政策である。
戦没者と戦傷病名に対して、次のような法律にもとづく援護制度が整備された。
戦傷病者戦没者遺族等援護法、恩給法、旧軍人等遺族の恩給特例法、戦没者等の妻に対する特別給付金支給法、戦傷病者特別援護法、戦没者等の遺族に対する特別弔慰金支給法、戦傷病者等の妻に対する特別給付金支給法および戦没者の父母等に対する特別給付金支給法である。
未帰還者に対しては、未帰還者留守家族等援護法と未帰還者に対する特別措置法とが制定された。
引揚者に対しては、引揚者給付金等支給法、引揚者等に対する特別交付金支給法および平和記念事業特別基金法である。
これらの援護法は、すべて日本国籍を有するものに限定され、年間約二兆円の国費が支出されている(一九九二年)。
一九八七年九月になってようやく、台湾住民である戦没者の遺族などに対する弔慰金法が成立し、翌年九月から台湾の戦死者および重度戦傷者にだけ、ひとり二〇〇万円が赤十字祉経由で支払われるようになった。
しかし、日本政府としての慰謝の言葉は表明されていない。
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